四畳半の住人 / 四畳半で梅干しを作る / 梅干し Q&A 〜 四畳半流

江戸時代の梅干しの塩分量おぼえ

健康食 うめ(社団法人 農山漁村文化協会 減塩ブームですが,江戸時代と比べると,18%でも遥かに減塩です。私の蔵書の記述を紹介します。

手づくり日本食シリーズ 健康食うめ
・昭和61年6月10日 第一版発行,昭和61年8月20日 第六版
・著者 中川紀子(なかがわ のりこ)
・社団法人 農山漁村文化協会 発行

 以下,健康食うめ(中川紀子著) 20ページ〜24ページより抜粋(一部漢字を変換しています:灰色)。せっかくのネット時代なので,言葉にリンクを貼っておきます。

水戸と梅

 水戸と梅のかかわりあいは古く,水戸九代藩主徳川斉昭公(水戸烈公)の「種梅記」に由来します。「種梅記」は,弘道館内八卦堂の南にあり,烈公自撰の名文「種梅記」が隷体に刻んであります。ここに読み下し文を記してみましょう。
 予(われ)少より梅を愛し庭に数十株を植う。天保癸巳(みずのとみ。天保四年)初めて国に就く。国中梅樹最も少し。南上の後,毎歳手自ら梅実を採りて以って国に輸し(いたし)司園の吏をして之を偕楽園及び近郊の隙地に植えしむ。今(ことし)庚子(かのえね)再び国に就く。種(う)うる所のものうつ然林をなし,華(はな)を開き実を結ぶ。
 たまたま弘道館新たに成るに会う。すなわち数千株をその側に植え,又国中の土民をして家毎に各々数株を植えしむ。
 夫れ梅のものたるや,華は則ち雪を冒(おか)し春に先だちて風騒の友となり,実(み)は則ち酸を含み渇を止めて軍旅の用となる。
 あゝ備あるものは患なし。数歳の後,文国に布(し)き,軍儲また充積すべきなり。孟子云わずや,七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むと。
 戒めざるべけんや。いさかか記して以って後人に示すという。
        天保十一年歳次庚子冬十月
           景山 選文書及び篆額 (景山は烈公の号)

健康食 うめ(社団法人 農山漁村文化協会
 以上のようなゆかりによって今日に至っており,現在でも広大な敷地に約四000本の梅が植えられ,開設の趣旨のとおり身分の上下の差別なく「偕(とも)に楽しむ園」として年間開放されています。梅の種類も多く早咲きの冬至梅は十二月には花をみせ,遅咲きの紅梅の咲くまで花期二ヶ月から三ヶ月もの長きにわたります。
 弘道館,偕楽園その他領内に植栽をすすめられた烈公は梅の貯蔵についても記されています。彰考館文庫(水戸・徳川家の文庫)に四0年も籍をおかれ徳川家の史実にお詳しい,福田耕二郎先生のお許しを得て,「烈公時代の梅の実」(『新いはらき』一九八二年七月四日および八日付)から抜粋させていただきます。

梅干し

 江戸時代には梅干しがひろく賞味されていて,『壺芦圃雑記』によると,大食大酒の会で梅干一升を一時に食べたという記録がある。
 烈公の手許の記録によると梅干しは,梅の実一升,なま塩四合,しそ二把とし,シソは,シオのとけ次第にだんだんにもみこみ,土用に入って漬け込みの日数には関係なく干し上げる。ほす日数は三日くらいと書いてある。これに烈公自ら附記してこれに酒気を加えるとやわらかになるから,新しい酒樽を使うのがよいと記されている(「食彩録」)。
 ここでいう塩四合といのは当時としても強すぎるので江戸時代の多くの記録には三合としている。梅一升というのは山盛り一升のことで,水分を含んでいる生ものなどは山盛りにするのが常法である。水戸地方で行われている漬け方は,梅の実を落し拾い集め,土間にひろげてむしろをかけて一晩ねせ,更に一晩水につける。こうすると実ばなれがよくなるといわれていた。その上でよく洗う。ざるに上げてかけ水をして十分水をきってから漬けこむ。塩は三合塩,軽く重石をする。
 シソも生長してくるのでみはからって,葉をつけた茎のまま採ってよく洗い,塩でもんで,あくを出しこれをつけこむ。これを土用に入って簀にひろげて日に干し,夜は梅酢の樽にもどす。この時,樽の中にはシソを多く入れて十分に着色させる。翌日も又これを繰り返し,三日程くりかえして容器に貯蔵する。
 漬けこむ時,容器に納める時に酒を用いると風味がでる。この梅干しは年数を経るほど塩がなじんで味わいがよくなる。この漬け方が水戸の古法である。これは天保七年に江戸,小田原屋主人の著した『四季漬物早指南書』の梅漬に似ているが,水戸の古法はこれより一歩すすんでいる。烈公はこの梅干しをシソ巻きにするとよいと指示している。梅干しをいろいろと調理に利用し,又,薬にも加えている。これら烈公の指示しているものは大へんな種類に及んでいてここの掲げきれないと先生は記しておられる。

2013年7月15日作成 四畳半の住人